top of page

「スピリチュアルペイン」についての講義

  • kinugasa0
  • 2022年7月29日
  • 読了時間: 2分

 先日、ある実践者の研修会で、「スピリチュアルペイン」についてお話しさせていただく機会がありました。


 身体的疼痛、精神的疼痛、社会的疼痛とともに、近年ソーシャルワークの臨床でも語られることの多い「スピリチュアルペイン」ですが、なかなかにその本来の意味を伝えるのは簡単ではないように思います。


 私は現象学の立場に立ちますので、スピリチュアルペインも「あいだ」=つまり関係性の上における痛みととらえます。なんとなれば、間主観的な存在論では、ある存在はその他の存在との「関わりあい」の上に立つ、と理解するからです。


 「世界は、私にとってさまざまに切り分けられて存在している。世界のうちの、あるものごと、たとえば一定の色、特定の音が切り分けられて存在しているとは、そのもの(色、音)・こと(色が見えること、音が聞こえること)が、それぞれに「意味」をもっているということだ。世界は、こうして、さまざまに意味づけられて、私に対して存在している。だが、私は、ただ一人で、世界に、世界のうちのもの・ごとに、意味を与えているわけではない。私は、「私たち」が共有することばをつうじて、いわばその分類の網の目を介して、世界を切り分け、意味づけている。私が世界に「対峙」し、世界のものごとに意味を与えながら生きているときに、私は「私たち」というかたちで「共に」生きている。「私たち」は「たがいに絡みあい交錯しあいながら」世界を意味づけている。世界はこうして、「私たち」にとって「間主観的」に与えられているのである」(熊野[2002:208])


 孤独な「個」としての存在=Zeinの痛みのみならず、「私たち」という「存在の痛み」を分かち合うことを通して、私たちはそこに「互いに理解し合える」可能性を見出すのではないでしょうか。


 もちろん、こんな難解な表現ではなく、ある「看取り」の事例を用いて、「響きあう関わりあい」のなかで癒やされる「存在の痛み」として、スピリチュアルペインを解説することを試みました。


 近年、本研究所ではさまざまな実践の方々とのかかわり、また私たち自身の実践とのかかわりを通じて、この「存在の痛みを分かち合うこと」の大切さに焦点を当てた研究を展開しようとしています。


 研究としてひとつのまとまったプロダクトとして提出するにはまだまだ時間がかかりますが、「ソーシャルワークの独自固有性」を追求するものとして、「実践から学ぶ」研究活動を活性化していこうと望んでおります。


 また、皆様からのご意見、ご批判をいただければ幸いです。


ree

 
 
 

コメント


記事: Blog2 Post

©2020 by 臨床ソーシャルワーク研究所(CSWRI)。Wix.com で作成されました。

bottom of page