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社会人を対象とした、ソーシャルワークの実践研修を担当させていただきました。

  • kinugasa0
  • 2023年11月20日
  • 読了時間: 3分

私のライフワークの一つとして、「現任訓練」というものが有ります。いわゆるリカレントと呼ばれるものですが、学生ではなく現在実際にソーシャルワーカーとして活躍されている方々を対象として、スーパービジョンを含め改めてソーシャルワークの「ミニマム・エッセンシャルズ」を学ぶために担当させていただいているものです。 一日9時間の研修を二日間、というなかなかにハードな研修なのですが、確かに疲れることは疲れるのですが、これほどやりがいのある仕事も少ないのです。 まず、多くの方が、ソーシャルワークについての「誤解」をされていることに驚きます。 私の考えでは、ソーシャルワークとは、ひととひととの「あいだ」にあるある種の感覚に共感し、かつそれを共有しながら、お互いの主体的な人格(これを間主観性とか相互主体性と現象学では言いますが)が立ち上がってくる、その一連のプロセスのことを言うと考えているのですが、実践の多くの方が「制度の利用」であったり、「サービスの提供」と答えられることに、愕然とさせられることが多いのです。 そこで、私自身が担当した不登校の中学生の事例や、ソーシャルワーカーへのスーパービジョン、またケアマネジャーさんとの関わりなどの、実際的な具体例からはじめ、ソーシャルワークが主体的に「生きていく」ことへの援助であることを理解して貰います。 スパゲティ症候群という言葉がありますが、その例も参照しながら、単に「生きている」状態を指す「生存」ではなく、「生きていく」という主体性を持った「生活」への支援であることを、体験的に学んでいきます。 この「生きていく」ことへの支援の重要性は、私がもう30年以上前に、恩師である岡本民夫・同志社大学名誉教授から教わったことです。当時は何の事やらわかりませんでしたが、私自身もそれなりに研究者として経験を積んできた今、「精一杯生きる」という意味的な世界に開かれた、此処の存在のあり方を具象化する方法としてのソーシャルワークのあり方をようやく理解しつつあります。 私が受賞した最初の著書では、「自己決定」をある種の能力主義だと批判しました。その議論の潮流がなかなか引き継がれていかないのは私自身の不徳の致すところですが、たとえ「自己決定」できない「道徳的でない」とされる存在であっても、「懸命に生きる社会を創造できないものか」と問われた、岩田正美先生の慧眼には瞠目せざるを得ません。 実践の方々が抱えている「現実」を相対化しながら、その「対話」の中から生まれてくるコミュニケーション的理性、というと手垢のついたハーバーマスの理論になりますが、それでも「近代の持つ新たな可能性」を、実践の方々と追究してゆく貴重な機会として、私はこのリカレントの取り組みを続けていきたいと願っています。 二日間の集中したセッションは、本当にクタクタになりますが、それは心地よい疲れでした。クリスマスの雰囲気に包まれた博多の街の歩きながら、自分自身の果たすべき業について、改めて自覚させられた次第です。


 
 
 

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